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1980年代の事件事故を振り返っていくンゴ

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1: 名無しさん@おーぷん 2016/09/24(土)02:01:58 ID:lk4
ちなみに阪神が唯一優勝したのは1985や
転載元:http://hayabusa.open2ch.net/test/read.cgi/livejupiter/1474650118/

阪神

2: 名無しさん@おーぷん 2016/09/24(土)02:03:15 ID:lk4
1980 ハプニング解散
前年1979年に、与党・自民党議員の首相指名選挙での投票先がほぼ二分されるという日本国憲法施行以来前代未聞の事態(四十日抗争)があった1980年5月16日、
日本社会党の飛鳥田一雄委員長が、浜田幸一衆議院議員のラスベガス・カジノ疑惑など、一連の自民党のスキャンダルを理由として衆議院に大平内閣不信任決議案を提出した。
解散総選挙を警戒していた公明党、民社党も同調の気配を見せ、これに呼応するかのように自民党の反主流派が動き出し、浜田の証人喚問とKDD事件のため国会に
綱紀粛正委員会を設置することを求め、大平正芳首相の回答を求めた。

4: 名無しさん@おーぷん 2016/09/24(土)02:03:51 ID:lk4
自民党の反主流派は不信任案を巡って同調するか否かで混乱し、灘尾弘吉衆議院議長は当初午後3時の予定だった本会議の開会を5時まで延長する。
しかし、それでも反主流派は結論に達せず再延長を灘尾に申し込むが、灘尾はこれを国会を軽視するものと拒否し開会を宣言。
前年の四十日抗争で大角(大平派と田中派)主流派に敗れ、自民党内で反主流派となっていた三木派や福田派、中川グループなどの議員69人は本会議を欠席した。
これにより内閣不信任決議案は賛成243票・反対187票で56票差で可決となった。内閣不信任決議可決は1953年以来27年ぶり。

5: 名無しさん@おーぷん 2016/09/24(土)02:05:22 ID:lk4
自民党執行部は不信任案に反対した田中・大平両主流派や旧中間派の議員と反主流派のうち本会議に
出席して不信任案に反対した中曽根派議員を第1次公認とし、欠席した反主流派の議員は第2次公認という形を取った。
当初は分裂選挙の様相を呈していたが、選挙中であった6月12日に大平が急死するという緊急事態が起こり、それを受けて自民党主流・反主流両派は一転して融和・団結し
弔い選挙の様相を見せて選挙戦を進めた。22日の投票で自民党は衆参両院で地すべり的大勝を収め、不信任案を提出した野党、特に公明党は大敗

6: 名無しさん@おーぷん 2016/09/24(土)02:07:43 ID:lk4
1980 静岡駅前地下街爆発事故

1980年8月16日午前9時31分、ゴールデン地下街を形成していたビルの一つである静岡第一ビル地階の寿司店にて小さなガス爆発事故が発生した。
すぐに事故を検証するため消防吏員(消防団員を含む)、警察官、静岡ガスの担当者や事故現場となった地下街を撮影するために報道関係者が地下街に入っていった。
この爆発は、地下の湧水処理漕に溜まっていたメタンガスに何らか(ポンプ付近)の火が引火したことが原因と考えられている。爆発は小規模なもので寿司店の床と奥の機械室が大破したが、
火災の発生には至らなかった。しかし、この爆発によりビル内の都市ガスのガス管が破損し、ガス管から漏れた都市ガスが地下街に溜まっていき、
また都市ガスは空気より軽いため直上のビルの上層階にも達していた。地下で現場調査を行っていた消防士が爆発場所の飲食店の奥の機械室に入った時に検知器が高濃度の可燃性ガスを検知したため、
地下街からの脱出を指示するとともに排気作業を開始したが間に合わず、午前9時56分に2回目の爆発が起こった。

7: 名無しさん@おーぷん 2016/09/24(土)02:08:31 ID:lk4
2回目の爆発は大規模なもので、火元となった飲食店の直上のビルは爆発・炎上し、このビルの向かいにあった西武百貨店静岡店や周囲に隣接する商店および雑居ビルなど163店舗[1]
にガラスや壁面の破損など、半径100メートルに[3]甚大な被害をもたらし、多くの通行人が重軽傷を負った。事故発生の当日はお盆や夏休み中の土曜日で買い物客も多かったことから
数多くの通行人が現場に駆けつけ、写真撮影をする者、応急的な救助活動をする者などで現場はパニックとなった。

8: 名無しさん@おーぷん 2016/09/24(土)02:11:09 ID:lk4
1980 新宿西口バス放火事件

1980年8月19日(火)21時過ぎ、新宿駅西口バスターミナル20番乗り場で、発車待ちのため停車中だった京王帝都電鉄(現・京王電鉄。当該事業は分社化により京王バス東が継承)の
運行する宿41系統・6号通り経由中野車庫行きバス(日野RE100・A2158号車 登録番号:練馬22か ・771)の車内に、男が後部ドアから火のついた新聞紙とガソリンが入ったバケツを車両後方へ投げ込んだ。
火は瞬時にして燃え広がり、6人が死亡、14人が重軽傷を負う惨事となった[1]。
犯人の男(当時38歳)は北九州市で5人兄弟の末っ子として生まれたが、父親は定職を持たないアルコール依存症で、親が教育に無理解であったため小学5年生ごろからほとんど登校していなかった。
犯人は父親の病死を機に建設作業員として全国を転々とする。1972年に結婚するも、妻が長男を出産した翌年に離婚。子供を児童施設に預けて毎月仕送りを欠かさずに、各地を転々としながら現場作業員として働いていた。
男の自供によれば、犯行の動機は「日ごろのうっぷんを晴らすため」だった[1]。事件当夜、駅前広場に通じる階段に座って酒を飲んでいたところ、何者かに「ここから出て行け」と言われ、カッとなって犯行に及んだという[2]。

9: 名無しさん@おーぷん 2016/09/24(土)02:11:28 ID:lk4
犠牲者の中に、当日後楽園球場で行われた読売ジャイアンツ対ヤクルトスワローズの試合を観戦した帰りの父親(40歳)と息子(8歳)もいた。
この事件を聞いた後楽園球場を管理する株式会社後楽園スタジアムと巨人軍が告別式に花を贈ったこと、王貞治が祭壇にサインボールを供えた[3]ことが日本全国に伝えられた。

12: 名無しさん@おーぷん 2016/09/24(土)02:12:53 ID:lk4
1981 土光臨調

行財政改革を謳い文句に、各省間の総合調整、各省定員、予算編成権の抜本的な検討が、政界や財界を中心にして提案されたが、
概算要求基準で予算の伸び率をゼロとする「ゼロ・シーリング」が導入され、それが第二次臨調答申前に閣議決定されたことで、大蔵省主導の予算編成権に関する抜本的な変化はなかった。
ただし、政治的圧力や官僚の抵抗を受けつつも、田中角栄等の大物政治家の支持を取り付け、三公社民営化などの提言は、中曽根康弘政権の一連の行政改革に結実していった[1]。
また、総合管理庁構想は、後の総務庁の設置、橋本政権における省庁再編につながっていると考えられる。

14: 名無しさん@おーぷん 2016/09/24(土)02:14:44 ID:lk4
1981 北炭夕張新炭鉱ガス突出事故

1981年(昭和56年)10月16日午後0時41分ごろ、海面下810メートル(坑口より約3000メートル)にある『北部区域北第五盤下坑道』の掘進作業現場付近で大規模なガス突出事故が発生[4]。
地上の総合事務所内にある集中監視室ではガス警報機のガス濃度が異常に高い値を示していたことから、坑内の検査員と連絡をとって事故発生を確認[4]。坑内では下請け企業の坑内員を含め838人が入坑しており、
北部方面では事故が発生した北第五盤下坑道の95人をはじめ160人が一番方として作業を行っていた[4]。会社は地上から全坑内員に退避命令を出し、近隣の北炭幌内炭鉱・北炭真谷地炭鉱へも応援を求め、
計50名からなる救護隊が組織され救出作業を開始した[4]。77人は自力脱出、または救護隊によって救出されたが、救護隊により33名が遺体で収容されたほか、坑内で10名の死亡を確認している[4]。

死亡者の多くは脱出中に坑道内で倒れていたところを救護隊によって発見された。死因はいずれもメタンガスを大量に吸ったことによる酸欠死、および粉塵による埋没死とみられた[4]。
死者の中には現職の夕張市議会議員も含まれていた[14]。当時の北海道新聞によると、札幌鉱山保安監督局などが救出された坑内員や入坑した救護隊員などからの調査として、北第五盤下坑道後向切羽から約100メートル手前
に崩落現場があり、大量の粉塵で坑道がふさがっていたうえ、ガスが走りぬけた痕跡もみられたことから、当初はこの付近が突出現場とみられていた[4]が、18日までに突出現場を北第五盤下坑道の第一立入ゲート付近と断定。
同坑道は突出警戒区に指定されていたが、事故発生前の10月16日午前10時40分に発破作業が行われていた[15]。

15: 名無しさん@おーぷん 2016/09/24(土)02:16:18 ID:lk4
16日午後11時30分頃、北第五盤下坑道後向切羽付近で坑内火災が発生[4]、地上と坑内を無線で連絡していた救護隊員5名・夕張新炭鉱の保安上席係員5名、およびいったんは生存が確認されていた15名との無線連絡が途絶え、二次災害となった[4]。
このとき二次災害に巻き込まれた救護隊員は酸素マスクなどの防備をしていなかったことが、後に判明している。当時の北海道新聞によると、この時点で会社は「被害を最小限に食い止めるため」として坑道内への注水を検討していると報じられている[4]。
翌17日未明、会社側は注水の同意を取り付けるため労働組合や不明者の家族と話し合いを行ったが、組合や家族から「人命切捨て」との猛反発を受け、会社側は注水方針を一度は撤回。再び救護隊を坑内に派遣し、新たに1人の遺体を収容した[11]。

16: 名無しさん@おーぷん 2016/09/24(土)02:17:20 ID:lk4
しかし、火災による高熱に加え大量の黒煙とガスが充満していた坑内では事故発生から3日目の18日になっても小爆発が発生しており、火災も収まる兆しがなかったことから救助活動は進展せず、
会社側は18日昼で救護隊の入坑を中止。家族の了解を取り付けたうえで坑内最深部への通気を止める仮密閉を実施した[15]。
仮密閉後も救急用圧搾空気は供給されていたが、この時点で坑内に取り残されている安否不明者の生存可能性は絶望視されていた[15]。結局仮密閉でも火災は収まらず、会社側は再び注水による鎮火の検討に入った。

事故発生から6日目の10月21日、会社は59名の安否不明者に生存の可能性はないと判断し、同日に行われた家族への説明会で当時の社長林千明ら幹部は注水への同意を要請[16]。
不明者の家族は「命をよこせというのか」と激怒したが、林は「お命を頂戴いたします」と発言。翌22日には幹部らが不明者宅を戸別訪問[17]し、この日までに全家族から同意書を取り付けた[16]。

17: 名無しさん@おーぷん 2016/09/24(土)02:17:57 ID:lk4
10月23日は注水に先立ち午前9時30分に救護隊員が入坑し、注水地点の傍らに菊やグラジオラスの花束を供えた。午後1時30分にサイレンが吹鳴されるとともに関係者が黙祷。
その後59名の安否不明者がいる坑内にペンケ真谷地川から引かれた水が流し込まれた[16]。夕張市内でも市役所や学校などで一斉にサイレンが鳴らされ、全市民が黙祷したという[16]。
注水によりようやく鎮火した坑内では排水後に遺体の収容作業が再開されたものの、注水で資材が水没していたり坑道も歪むなど荒れ果てていたため、遺体収容・確認作業は難航。
最後の遺体が収容されたのは事故から163日後の1982年(昭和57年)3月28日であった。最終的な死者数は93人にのぼった。

18: 名無しさん@おーぷん 2016/09/24(土)02:18:24 ID:Tuc
金属バットで両親撲殺事件もこの年やっけ

19: 名無しさん@おーぷん 2016/09/24(土)02:18:46 ID:lk4
>>18
80年だから一年前やね

21: 名無しさん@おーぷん 2016/09/24(土)02:20:15 ID:lk4
1982 ホテルニュージャパン火災

.火災は、1982年(昭和57年)2月8日の午前3時24分に発生。主に火元の9階と10階を中心に同日12時半過ぎまで9時間に渡って燃え続けた。炎は7階にまで達しており、延焼面積は約4,200平方メートルに達した。ホテルの宿泊客を中心に死者33名(台湾人12名(うち一人は妊婦)、
日本人11名、韓国人8名、アメリカ人(日系アメリカ人)1名、イギリス人1名[1])・負傷者34名を出す大惨事となった。東京消防庁の調べでは、出火の原因は9階938号室に宿泊していたイギリス人の男性宿泊客[注 1]の酒に酔った寝タバコが原因であった。
極初期の小火で一度目が覚め、毛布で覆って完全に消火したつもりで再び寝入ってしまうが火は消えておらず覆った毛布に着火し部屋中に燃え広がったと見られる。廊下での焼死など火災による死者が多かったが、有害ガスを含んだ煙から逃れるために
窓から飛び降りて命を落とした人も13人いた。なお、9階と10階の生存者の中には火災で非常口から避難ができず、シーツをロープ替わりにして窓から下の階へ避難した者や消防隊に救出された者もいた。
この火災では日本時間午前3時24分出火[2]、12時36分の鎮火まで、およそ9時間に渡って都心を真っ赤に染めるように燃え続けた。

22: 名無しさん@おーぷん 2016/09/24(土)02:21:13 ID:HCk
>>21
この社長ほんま嫌い

23: 名無しさん@おーぷん 2016/09/24(土)02:22:07 ID:lk4
東京消防庁では、第一報となる3時39分のタクシー運転手からの119番通報を受け、消防車など21台、救急車1台を出場させたが[注 7]、「上階が激しく延焼し、要救助者が多数発生している」という現場からの報告を受けて矢継ぎ早に部隊を増強、
午前4時2分には最高ランクの出場態勢である「火災第4出場」、さらに基本運用規程外の応援部隊を出場させる「増強特命出場」と、多数の負傷者に対応するための「救急特別第2出場」をあわせて発令。
消防ポンプ車48台、はしご車12台、救助車8台、救急車22台、消防ヘリコプター2機を始めとするポンプ隊101隊、救急隊22隊、特別救助隊8隊など人員627名を投入。消防総監が現場に出向き「本部指揮隊車」(東京消防庁にだけある、指揮車の中で最も大きく重装備の車種。
これを動かす際には「警防本部」が立ち上げられる)を使って直接指揮するという、品川勝島倉庫爆発火災以来の、全庁を挙げての消火活動と救助活動を行う。

24: 名無しさん@おーぷん 2016/09/24(土)02:23:26 ID:lk4
横井は火災発生現場で報道陣に対し拡声器で「本日は早朝よりお集まりいただきありがとうございます」、「9・10階のみで火災を止められたのは不幸中の幸いでした」などと現場の状況を全く考慮しない・緊張感に欠ける不謹慎極まりない発言をしたことに加え、
「悪いのは火元となった(938号室の)宿泊客」と責任を転嫁(社長の自分は悪くないと)するコメントを発した。また、火災当時、人命救助よりもホテル内の高級家具運び出しを指示したとされる[注 9]。こうした横井の不謹慎(失礼)な言動は国民からの手厳しい非難を呼んだ[注 10]。

後に、現場に突入した当時東京消防庁永田町特別救助隊隊長であった高野甲子雄(たかの・きねお)に“口止め料”として贈賄を図り、これに激怒した高野に追い返されたことも明らかになっている。なお、高野はこの時に外国人客(この外国人客は救助後、
病院に運ばれるも、まもなく死亡)の救助作業中、フラッシュオーバー現象に遭って炎に包まれ、喉元に大やけど(気道熱傷。しかし救出直後に水を飲んだ事により大事には至らなかった。)を負った

25: 名無しさん@おーぷん 2016/09/24(土)02:25:09 ID:lk4
1982 日本航空350便墜落事故

事故を起こした350便は、9分遅れの午前7時34分に福岡空港を離陸した。その後、フライトプランに沿って順調に飛行し、8時35分には羽田空港への着陸許可を受け車輪、フラップをおろして着陸準備に入った。
高度200フィート(約61メートル)までは順調であったがその直後の8時44分1秒、機長は自動操縦装置を切ると、突如として操縦桿を前に倒し、機首を下げながらエンジンの推力を絞る操作と、エンジン4基のうち2基の逆噴射装置を
作動させる操作を行ったため、機体は前のめりになって降下し始めた。
エンジン音の異変に気付いた航空機関士が「パワー・ロー」と叫んで推力を戻し、副操縦士が操縦桿を引き上げたが、8時44分7秒、対地接近警報装置 (GPWS) の警告音「Glideslope!」[1]が
コックピットに鳴り響くなか、滑走路手前の海上にある誘導灯に車輪を引っ掛けながら滑走路直前の浅い海面に機首から墜落した。機体は機首と機体後部で真っ二つになったが、墜落現場が浅瀬だったため機体の沈没は免れた。
この墜落により乗客・乗員24名が死亡、149名が重軽傷を負った[2]。
ホテルニュージャパン火災の翌日であり、東京消防庁は対応に追われている中であったが、特別救助隊や水難救助隊、消防艇を出して救助活動にあたった。

27: 名無しさん@おーぷん 2016/09/24(土)02:26:06 ID:lk4
この事故の直接の原因は機長の操縦によるものである。機長が機体の推力を急激に減少させながら機首下げを行ったため、機体は急に下降して滑走路の手前に墜落した。
機長は、まだ副操縦士であったこの事故の6年前に初めて幻覚を見ており[3]、それ以後、初期の精神分裂病[4]、うつ状態、心身症[5]などと診断され、聖マリアンナ医科大学病院の医師、会社の常勤内科医、非常勤精神科医らの診察、治療を受けたが[6]改善せず、
事故直前には「ソ連が日本を破壊させるために日本を二派に分断し、血なまぐさい戦闘をさせているんだ」などの強い信念(被害妄想)を抱くまでに至っていた[7]。
事故当日の350便の乗務中には、「敵に捕まって残忍な方法で殺されるよりも、自分から先に死んだほうがマシだ」という妄想を抱くに至り、しばらく恐怖に震えた後に現実に戻るという精神状態にあった[8]。羽田への着陸降下中、高度200フィートに至り副操縦士が
「ミニマム」とコールアウトした。本来は「ランディング」(着陸する)または「ゴー・アラウンド」(復行する)と答えるべきだが、機長は「チェック」というのみだった。そして、350便が200フィート以下に降下した後、突然「イネ、イネ、……」という言葉が機長の頭全体に響き渡った。
機長はとっさに「死ね、死ね、……」との命令と理解し、手動操作に切り替え操縦桿を押し込み、エンジンを逆噴射させた[9]。
航空機関士が直ちに機長のこの異常操作に気づき、機長の右手を叩いて止めさせ、リバース・レバーを戻した。副操縦士は機首が急に下がったことに気づき、反射的に操縦桿を引き起こそうとしたが、機長が操縦桿を押し込む力が強く、引き起こすことができなかった。
副操縦士が「キャプテン、やめてください!」と叫ぶと、機長は操縦桿への力を緩めた。しかし、ミニマムのコールアウトからたった8秒間足らずの異常操作であっても、機を海面に叩きつけるには十分であり、8時44分7秒、日本航空350便は滑走路進入端から510メートル手前の東京湾に墜落

30: 名無しさん@おーぷん 2016/09/24(土)02:26:35 ID:lk4
当時日本テレビのアナウンサーだった徳光和夫が副操縦士と知り合いだったため、徳光が後に彼の体験を聞いている。それによると、副操縦士は徳光に対し「墜落直前に航空機関士と共に機長を羽交い締めにするようにして、
機長席側の操縦桿を思いっきり引いた、機体が水平になったと同時に墜落した」と証言した。副操縦士と航空機関士が制止しなければ、さらに犠牲者が増えていた可能性が高いと言われている

32: 名無しさん@おーぷん 2016/09/24(土)02:28:12 ID:lk4
1983 日本海中部地震

5月26日11時59分57秒に、秋田県能代市西方沖80 km(北緯40度21.6分、東経139度4.4分、深さ14 km)の地点で発生した逆断層型の地震。地震の規模はM7.7
当時日本海側で発生した最大級の地震であり、秋田県・青森県・山形県の日本海側で10 mを超える津波による被害が出た。
国内での死者は104人に上り、そのうち100人が津波による犠牲者である[1]。家屋の全半壊3049棟、船舶沈没または流失706隻[1]。被害総額は約518億円[

33: 名無しさん@おーぷん 2016/09/24(土)02:29:31 ID:lk4
1984 自民党本部放火・襲撃事件


1984年9月19日午後7時半ごろ[1]。、東京都千代田区永田町にある自民党本部裏の中華料理店駐車場に、
某運送会社の配達車に偽装した2台の小型トラックが停車した。30歳前後の運転手の男が店員に対し「お届けに参りました。印鑑をお願いします」と話しかけたため、
店員が奥に印鑑を取りに行った。その間に数人が駐車した偽造ナンバープレートのトラックの荷台に積み込んでいた火炎放射器を操作して
自民党本部北側3階に向けて火炎放射した[1]。犯人らはライトバンで逃走し、その後車ごと作業服とともに焼き捨てる証拠隠滅を図っていた。

34: 名無しさん@おーぷん 2016/09/24(土)02:29:53 ID:lk4
この事件現場で、法務大臣の住栄作が、消火活動に当たっていた衆議院議員の浜田幸一を見て、「マッチポンプみたいな真似しやがって」と発言し、その場で浜田に殴打された(法相殴打事件)。後日、住は浜田に発言は不適当だったと謝罪した。

35: 名無しさん@おーぷん 2016/09/24(土)02:31:25 ID:lk4
1985 豊田商事事件・会長刺殺事件

高齢者を中心に数万人が被害に遭い、被害総額は2000億円近くと見積もられ、2016年現在詐欺事件としては最大の被害額[1]である。強引な勧誘によって契約させられた挙句に老後の蓄えを失った被害者も多い。

客は金の地金を購入する契約を結ぶが、現物は客に引き渡さずに会社が預かり「純金ファミリー契約証券」という証券を代金と引き替えに渡す形式を取った。このため客は現物を購入するのか確認できず、
実態は証券という名目の紙切れしか手許に残らない現物まがい商法(ペーパー商法)と言われるものであった。豊田商事の営業拠点には金の延べ棒がこれ見よがしに積まれていたが、
後の捜査によってそれは「ニセモノ」であったことが明らかになっている。

36: 名無しさん@おーぷん 2016/09/24(土)02:31:51 ID:lk4
また勧誘においては主に独居老人が狙われたのも特徴だった。まず電話セールスで無差別に勧誘し、脈ありと判断すると相手の家を訪問する。
家に上がると線香をあげたり身辺の世話をしたり「息子だと思ってくれ」と言って人情に訴えるなど相手につけ込み、インチキな契約を結ばせていった

37: 名無しさん@おーぷん 2016/09/24(土)02:32:15 ID:lk4
1985年6月18日、大阪市北区にあった永野一男豊田商事会長の自宅マンションの玄関前に「今日逮捕」との情報を聞きつけてマスコミ取材班が集まっていた。
午後4時30分過ぎ、被害者の元上司に当たる自称右翼の男[1]2人IとYが永野会長の部屋の前に姿を現した。2人は張り込んでいたガードマンに「永野に会わせろ」と要求。
連絡を取るためにガードマンが階下に下りた後、2人は元部下の被害者6人から「もう金はええ、永野をぶっ殺してくれ」と頼まれたと報道陣に語った[2]。

39: 名無しさん@おーぷん 2016/09/24(土)02:33:05 ID:lk4
そして窓の格子を蹴破り、窓ガラスを破って侵入、永野会長の頭部など全身13箇所を銃剣で刺した。当時、永野会長の住んでいた部屋のドアの前などには大勢のマスコミがいたが、誰も止めようとはしなかった[3]。
永野会長は直ちに病院へ運ばれたが、腹部を刺されたのが致命傷となり、出血多量により約45分後の午後5時15分に息を引き取った。この時の永野会長の所持金はわずか711円だった。部屋から出た犯人らは、
「警察を呼べ。俺が犯人や。」と報道陣に語り、マンションから出たところで逮捕された.

41: 名無しさん@おーぷん 2016/09/24(土)02:34:29 ID:lk4
1984-1985 グリコ・森永事件

阪神を舞台として食品会社を標的とした一連の企業脅迫事件。警察庁広域重要指定114号事件。犯人が「かい人21面相」と名乗ったことから、かい人21面相事件などとも呼ぶ

42: 名無しさん@おーぷん 2016/09/24(土)02:34:59 ID:lk4
1984年3月の江崎グリコ社長を誘拐して身代金を要求した事件を皮切りに、江崎グリコに対して脅迫や放火を起こす。
その後、丸大食品、森永製菓、ハウス食品、不二家、駿河屋など食品企業を次々と脅迫。現金の引き渡しにおいては次々と
指定場所を変えたが、犯人は一度も現金の引き渡し場所に現れなかった。犯人と思しき人物が何度か目撃されたが逃げられてしまったため、結局正体は分からなかった。
その他、1984年5月と9月、1985年2月に小売店で青酸入り菓子を置き、日本全国を不安に陥れた。

43: 名無しさん@おーぷん 2016/09/24(土)02:36:25 ID:lk4
1984年3月18日午後9時頃、兵庫県西宮市の江崎グリコ社長・江崎勝久の実母宅に拳銃と空気銃を構えた2人の男が
勝手口を破って押し入り(家の外には車の運転手役の男がおり、犯行は3人組の男が実行している)、同女を縛り上げて社長宅の合鍵を奪った。
2人組はそのまま隣家の社長宅の勝手口から侵入、社長夫人と長女を襲い、2人を後ろ手に縛って脇のトイレに閉じ込めた。
その後、2人の男は浴室に侵入。長男、次女と入浴中だった社長を銃で脅し、全裸のまま誘拐した。

44: 名無しさん@おーぷん 2016/09/24(土)02:37:15 ID:lk4
この段階から、兵庫県・大阪府にまたがる重大事案として、兵庫県警察本部・大阪府警察本部による合同捜査体制が始まる。
その後、犯人の男から電話がかかり別の指定場所に身代金を持って来るよう要求したが、結局犯人は現れなかった。
犯人グループが要求した現金10億円は高さ9.5メートルで重量は130kg、これに加えて金塊100kgでは運搬が困難であり、
合同捜査本部ではどこまで犯人グループが本気で要求していたのかいぶかる声もあったが、要求に従ってグリコはそれらを用意した[3]

46: 名無しさん@おーぷん 2016/09/24(土)02:37:56 ID:lk4
その後、誘拐事件は急展開する。事件3日後の3月21日14時30分ごろ、国鉄職員から110番通報を受けた大阪府茨木警察署によって江崎が保護された。
江崎の証言によると、大阪府摂津市の東海道新幹線車両基地近くを流れる安威川沿いにある治水組合の水防倉庫から自力で抜け出したとされ、大阪貨物ターミナル駅構内で保護

48: 名無しさん@おーぷん 2016/09/24(土)02:38:54 ID:lk4
1984年4月2日、江崎宅に差出人不明の脅迫状が届く。内容は4月8日に指定場所へ現金6000万円を持ってくるよう要求。脅迫状には塩酸入りの目薬の容器が同封されていた。4月8日に現金受け渡し指定場所に警察が張りこむも、犯人は現れなかった。

1984年4月10日20時50分頃、大阪府大阪市西淀川区の江崎グリコ本社で放火が発生。火元は工務部試作室であり、火は棟続きの作業員更衣室にも燃え移り、試作室約150m2は全焼

1984年5月10日に毎日新聞、読売新聞、サンケイ新聞、朝日新聞の4社にかい人21面相から「グリコの せい品に せいさんソーダ いれた」と挑戦状が届いた。

1984年6月22日、大阪府高槻市の丸大食品に脅迫状が届く。内容は「グリコと同じ目にあいたくなかったら、5千万円用意しろ」というものだった。

49: 名無しさん@おーぷん 2016/09/24(土)02:40:00 ID:lk4
1984年9月12日朝、大阪府大阪市の森永製菓関西販売本部に数千万円を要求する脅迫状が届く。
脅迫状には「グリコと同じめにあいたくなければ、1億円出せ」「要求に応じなければ、製品に青酸ソーダを入れて 店頭に置く」と書かれており、
青酸入りの菓子が同封されていた。

1984年10月7日から10月13日にかけて、大阪府、兵庫県、京都府、愛知県のスーパーから不審な森永製品が発見された。
「どくいり きけん たべたら しぬで かい人21面相」と書かれた紙を貼った森永製品が置かれており、菓子の中に青酸ソーダが混入されていた

50: 名無しさん@おーぷん 2016/09/24(土)02:41:27 ID:lk4
1984年11月7日、ハウス食品工業(現ハウス食品)総務部長宅に脅迫状が届く。浦上郁夫社長の宛ての脅迫状は現金1億円を要求する内容で、
受渡し日は11月14日、場所は京都市伏見区のレストランというように指定されており、別の脅迫状には青酸ソーダ混入のハウスシチューが同封されていた。

51: 名無しさん@おーぷん 2016/09/24(土)02:41:50 ID:lk4
14日20時20分、脅迫状の予告どおり犯人からの総務部長宅に電話連絡がかかる。女の子の声の録音で受渡し場所を指定。
これを機に合同捜査本部は大阪・京都に刑事を多数配置した。指定場所へ行くと別の場所を指定するメモが残されており、
場所変更は4回繰り返された。この間、名神高速道路京都南インターチェンジ付近で、警戒中の京都府警察本部の刑事がキツネ目の男を発見し、
合同捜査本部に報告する[9]。この日、キツネ目の男は3回にわたって刑事に目撃される。幾度かの場所変更指示によって、
現金を乗せた車が大津サービスエリアに向かった。

52: 名無しさん@おーぷん 2016/09/24(土)02:42:50 ID:lk4
滋賀県警察本部には合同捜査本部から現金授受への捜査共助を要請されていたが、「名神高速道路エリア内は大阪府警察本部を配置するので、
名神高速道路に入らないように」と言われていた。しかし、滋賀県警察本部は突発事案に対応すべく刑事部捜査第一課の刑事2人を
大津サービスエリアに配置する。そして大津サービスエリアに配置された刑事はキツネ目の男を発見する。キツネ目の男は尾行点検をしたり、
ベンチに何かを張り付けるなどの特異動向があったものの、職務質問などは禁じられていたため、刑事はそのまま撤収したという[10]。

53: 名無しさん@おーぷん 2016/09/24(土)02:43:19 ID:lk4
滋賀県警の刑事が撤収した後、大津サービスエリアに到着した大阪府警の刑事は現金輸送車の様子を伺う不審者を目撃する。
不審者の人相は、丸大脅迫事件に目撃されたキツネ目の男と一致。
しかし刑事に尾行や職務質問する権限を与えられていなかったため、キツネ目の男はそのまま一般道路の方へ去って行った。

54: 名無しさん@おーぷん 2016/09/24(土)02:44:21 ID:lk4
現金輸送車は指示通り草津パーキングエリアへ向かった。そこで、「名古屋方面に向かい、白い布が見えたら、白い布の下の缶に入れた指示書を見ろ」という指示書を受ける。
現金輸送車が到着するよりも先に、白い布が草津パーキングエリアから東へ5kmの地点の道路脇の防護フェンスに取り付けられているのが発見された。
道路管理局の巡回記録によると、14日20時50分から21時18分の間に取りつけられたものと判明。しかも白い布がつけられた防護フェンスの付近には無線通信が不能の場所があったため、
合同捜査本部にとっては最悪の展開となる。その場所は、県道川辺御園線が交差していた。合同捜査本部はこの県道と名神の交差部分を封鎖したが、問題の空き缶がなかった。
犯人らしい男も姿を見せず、22時20分に捜査は打ち切られた。

56: 名無しさん@おーぷん 2016/09/24(土)02:45:07 ID:lk4
一方、白い布があった場所の付近で、パトカーでパトロールをしており一連の事件捜査を知らない滋賀県警の所轄署外勤課員が、
夜なのに無灯火の不審な白いライトバンを発見。外勤課員が職務質問するために白のライトバンに駆け寄り懐中電灯を照らすと、運転席に男がいた。

しかし、白のライトバンは急に発進。白のライトバンはパトカーと激しいカーチェイスを繰り広げパトカーを振り切った。
21時25分、白いライトバンが発見されたが、男の姿はなかった。白いライトバンは11月12日に盗難された車と判明した。
パトカーが不審車の前方をふさぐように停車せずに、横付けしたことを失策と指摘する論調もあった[11]。取り逃がした外勤課員は責任を取って後に辞職した[12]。

57: 名無しさん@おーぷん 2016/09/24(土)02:46:32 ID:lk4
1985年8月7日、ハウス食品事件で不審車両を取り逃がした滋賀県警本部長が自身の退職の日に本部長公舎の庭で焼身自殺をする。
遺書は残されていないが、一般に失態の責任を取ったと解釈されている[16]。
ハウス食品事件の失態の責任を全て負わされたことに抗議するための自殺だったとする説もある[要出典]。
本部長はノンキャリアからの叩き上げであった。

58: 名無しさん@おーぷん 2016/09/24(土)02:47:01 ID:lk4
8月12日、犯人側から「くいもんの 会社 いびるの もお やめや」との終息宣言が送りつけられた。
理由は、その5日前に自殺した滋賀県警本部長への香典代わりというものだった。
脅迫状の届いた会社の一つであったハウス食品工業社長の浦上郁夫はこの事件の終息を同社の創業者・前社長であり
父親にあたる浦上靖介の墓前に報告するために8月12日に日本航空123便に搭乗し、日本航空123便墜落事故に巻き込まれ死去した。

59: 名無しさん@おーぷん 2016/09/24(土)02:47:17 ID:lk4
2000年2月13日0時に東京・愛知で青酸入りの菓子をバラまいた2件の殺人未遂事件とこれにかかわる28件すべてに公訴時効が成立した。

60: 名無しさん@おーぷん 2016/09/24(土)02:48:55 ID:lk4
1985 日本航空123便墜落事故

18時24分(離陸から12分後)、相模湾上空を巡航高度の24,000ft (7,200m) へ向け上昇中、
23,900ftを通過したところで緊急事態が発生する。突然の衝撃音と共にJA8119型機の垂直尾翼は垂直安定板の下半分のみを残して破壊され、
補助動力装置も喪失、その際にハイドロプレッシャー(油圧操縦)システムの4系統全てに損傷が及んだ結果、操縦システムに必要な作動油が全て流れ出して、
油圧を使用したエレベーター(昇降舵)やエルロン(補助翼)の操舵が不可能になってしまう[

61: 名無しさん@おーぷん 2016/09/24(土)02:50:07 ID:lk4
衝撃音がした直後、高濱機長は航空管制官への無線交信で羽田空港への引き返しを要求している。
その際、管制官の「右と左のどちらへ旋回するか?」という問いに対し機長は、羽田空港へは遠回りになる「右旋回」を
要求している。このことは「海山論争」として多くの議論を呼ぶ。

62: 名無しさん@おーぷん 2016/09/24(土)02:51:09 ID:lk4
46分、高濱機長の「これはだめかも分からんね」との発言が記録されている。
やがて機体は山岳地帯上空へと迷走していき、47分頃からは彼らの中でも会話が頻繁になり、焦りが見え始めていた。
右、左との方向転換が繰り返し指示される中で、操縦している副操縦士に対して機長が「山にぶつかるぞ」
と叫ぶなど、緊迫した会話が数回記録されている。この時機体は6,000ft (1,800m) 前後をさまよっていた。
48分頃には航空機関士が、操縦する副操縦士に「がんばれー」と励ますとともに、たびたび副操縦士の補助をしていた様子が記録されている。
この頃からエンジン出力(パワー)の強弱で高度を変化させる操縦を行い始めたと思われる。機長の機首下げの指示に対して副操縦士は「今舵いっぱい」と返答している。

63: 名無しさん@おーぷん 2016/09/24(土)02:51:42 ID:lk4
50分、「スピードが出てます スピードが」と困惑する副操縦士に機長が「どーんといこうや」[※ 21]と励ます音声が残っている。
機長の「頭下げろ、がんばれがんばれ」との励ましに対して副操縦士は「今コントロールいっぱいです」と叫んでいる。この頃速度が頻繁に変化し、
不安定な飛行が続いていたために、副操縦士が速度に関して頻繁に報告をしている。51分、依然続くフゴイド運動を抑えるために電動でフラップが出され[※ 22]、
53分頃から機体が安定し始めた。

64: 名無しさん@おーぷん 2016/09/24(土)02:53:16 ID:lk4
55分12秒、フラップを下げたとたん、南西風にあおられて機体は右にそれながら急降下し始める。55分15秒から機長は機首上げを指示。
43秒、機長が「フラップ止めな」と叫ぶまでフラップは最終的に25度まで下がり続けた。45秒、「あーっ」という叫び声が記録されている。
50秒頃、機長の「フラップみんなでくっついてちゃ駄目だ」との言葉に混じって副操縦士が「フラップアップフラップアップ」と叫び、
すぐさまフラップを引き上げたがさらに降下率が上がった。この頃高度は10000ft (3000m) を切っていた。

56分00秒頃、機長がパワーとフラップを上げるよう指示するが航空機関士が「上げてます」と返答する。07秒頃には機首は36度も下がり、
ロール角も最大80度を超えた。機長は最後まで「あたま上げろー、パワー」と叫ぶ。

65: 名無しさん@おーぷん 2016/09/24(土)02:53:51 ID:lk4
18時56分14秒に対地接近警報装置が作動。同17秒頃にはわずかに機首を上げて上昇し始めたが、
同23秒に右主翼と機体後部が樹木と接触し、衝撃で第4エンジンが脱落した。このとき、機首を上げるためエンジン出力を上げたことと、
急降下したことで、速度は346kt (640km/h) に達していた。

67: 名無しさん@おーぷん 2016/09/24(土)02:54:46 ID:lk4
同26秒には右主翼の先端が稜線に激突し、衝撃で右主翼の先端と垂直・水平尾翼、第1・第2・第3エンジンが脱落、
さらに同28秒には機体後部が分離した。機体は機首を下げながら前のめりに反転してゆき、18時56分30秒に高天原山の斜面にほぼ裏返しの状態で衝突、墜落した。

18時56分28秒まで録音され続けていたボイスレコーダーには23秒と26秒頃に衝撃音が残されていた。
23秒の衝撃音の直前には、PULL UP(上昇せよ)との警告音に混じって機長の「あーダメだ…」もしくは「もうダメだ…」とも聞き取れる叫び声も記録されていた。

68: 名無しさん@おーぷん 2016/09/24(土)02:55:36 ID:lk4
著名人の死者

・坂本九(歌手)
・北原遥子(女優・元宝塚歌劇団雪組娘役)
・中埜肇(阪神電気鉄道専務取締役鉄道事業本部長・阪神タイガース球団社長)
・石田一雄(阪神電気鉄道常務取締役)
・浦上郁夫(ハウス食品代表取締役社長)
・塚原仲晃(医学博士・大阪大学基礎工学部教授)
・辻昌憲(元自転車競技選手・シマノレーシング監督)
・竹下元章(元広島カープ捕手)※墜落地となった群馬県の住民[28]で唯一の乗客。
・石野喜一(神栄石野証券代表取締役社長)
・藤島克彦(コピーライター)
・緋本こりん(同人漫画家)
・和田浩太郎(美容研究家、ミス日本審査員)

69: 名無しさん@おーぷん 2016/09/24(土)02:57:07 ID:lk4
1985 プラザ合意

1980年代前半、レーガン政権下のアメリカでは、前政権から引き継いだ高インフレ抑制政策として、厳しい金融引締めを実施していた。
金利は2桁に達し、世界中のマネーがアメリカへ集中し、ドル相場は高めに推移して、輸出減少と輸入拡大は大幅な貿易赤字をもたらした。
さらに、高金利により民間投資は抑制され、需給バランスが改善した。結果として、インフレからの脱出には成功した反面、
国際収支が大幅な赤字となり財政赤字も累積していった

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